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倫理Ethics

意識場と物質場を包括する統合場は、本来の「自然そのもの」の活動である。それは意識場の基盤となり、物質場の実体性の根拠となる、自然そのものの活動である。この「自然そのもの」という言葉は、統合場の物的性質を強調するものだが、その心的性質を強調するのならば、統合場は「命そのもの」と表現する方が相応しいだろう。心あるもの、すなわち命あるものの根源的な場である統合場は、「命そのもの」の活動である。

この根源的な命の活動(統合場)は意識場として顕現し、意識場からは私(自己)が仮構される。この活動を反対方向から言えば、仮構されていた自己は意識の場そのものへと拡張し、さらに意識の場は無限に拡張して、根源的な命そのもの(統合場)に至る。自己は場(いのち)から生じ、場(いのち)へと帰す。

東洋の絶対知(無分別智)とは、この根源的な命そのものの直知である。東洋の伝統的な思想や哲学は、この言語を超えたところの根源的な命そのものを、言語によって便宜的に説くものである。

平等性と慈悲

全ての自己の根元は、根源的な命(統合場)のなかにある。よって、その根元においては全ての人間存在は全くの同質であり平等である。根源的な命から意識が生まれ、その意識から自己は生まれる。全ての自己はその本性として根源的な命そのものと同質であり、それゆえに自己と他者は本質的には完全なる平等性と尊厳性を保つ。

このような命の根源的な平等性や尊厳性があるからこそ、そこから必然的に「慈悲」の発露がある。自他の本質においての平等性に基づいて、無条件の愛の自覚に至る。慈悲は命の本性によって基礎付けられるものであり、そこから必然的に生じるものである。それは外から強制される規制や道徳では無く、特定のプロパガンダやイデオロギーでも無い。人間本性から発する慈悲は、時代性や地域性、民族性にも左右されることは無く、普遍性を有している。

良心

現実生活においては、人間は個々の立場から、他者の命の価値を捉えている。私たちは自我(五蘊)の活動によって、経験として他者の命の価値を自覚する。したがって、この現実世界においては、私たちの他者を慈しみ哀れむ心情(慈悲)の及ぶ範囲は、人間の自我の活動を中心とした限定的で条件付きのものとなる。現実、命の価値の自覚が及ばないところに、慈悲は顕在化しない。

統合場の立場から言えば、あらゆる命はその本性としては無限無量の根源的尊厳性と平等性を備えている。その無限無量の命の価値の自覚は、私たちの相対的で限定的な慈悲のはたらきを、より深く広く伸展させることになる。この世界においては、私たちの命の価値の自覚は、自我(五蘊)の活動の範囲に矮小化しているが、命はその本性として、この矮小化した価値認識を無限無量に深め広げようとする。そのはたらきは、親しい人々だけでなく、憎しみあう人々に対しても、命の価値の自覚を促す。また、自分が所属する一部の人間集団だけではなく、あらゆる人間の命の価値の自覚を促す。そしてさらに、人間という枠組みを超え、互いに生かし合う生命の尊厳性の自覚をも促す。それは一部の親しいものしか愛せない私たちに「あらゆるものを愛せよ」と静かに語りかける、心の奥底からわき起こる義務感のようなものとして感じられるかもしれない。その心の奥底からの声なき声は、私たちの「良心」の基盤となる。

あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、
そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。
また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。
上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし。)
立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。

いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

仏教経典「スッタニパータ」より
(中村元訳「ブッダのことば」岩波書店)

 

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