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哲学Philosophy

物質場と意識場、統合場

直観的には、私たちが住む世界は二つの異質な「場」によって形成されているように思う。一つは、あらゆる主観的意識事象/クオリア発現の舞台となる「意識の場」である(ここで述べるクオリアは、赤さ、音色、芳香、苦み、痛み、喜び、悲しみ、欲求、意志、自我感覚・・・等の意識経験の内容全てを意味する)。そしてもう一つは、空間、時間、物質、力といった、あらゆる物理現象を包括する「物質の場」である。前者の意識場は芳醇で美しいクオリアで彩られているが、後者の物質場は合理的で美しい数式で体系化されている。

光と影のダンスのように、意識場と物質場の活動は、密接な相関関係を示す。意識の活動があるところには、常に何らかの物質の活動がある。しかしながら、この二つの場は全く別次元の存在概念となっている。意識場は主観的・私秘的・一人称的であるのに対し、物質場は客観的・公共的・三人称的である。今日の神経生物学が説明するように、意識場の活動は物質場の活動に置き換えて語ることは可能であるが、意識場は物質場そのものでは無い。意識の主観的性質は、物質場からは完全に抜け落ちている。物質場にあるのは、位置、力、質量、電荷、スピン等といった物理的情報のみであり、私たちが良く知る、喜び、哀しみ、茜色の空、新緑の木々、そして自己の感覚等といった主観的情報(クオリア)は欠落している。意識場と物質場は、(その挙動は相関しながらも)存在論的には完全に分離しており、二つの場は交わる事の無い平行的な場として描写される(図2)。

図2 意識場と物質場
(三島ジーン「こころを探究する」より引用)

図2 意識場と物質場

意識場と物質場は、世界を二分する場となっているが、今ここでは、両者を統一する概念である「統合場(インテグラル・フィールド/Integral Field)」の存在を仮定してみたい。意識場と物質場は全く別次元の実在である可能性(二元論)を排除することはできない。しかしながら、二つの場の活動の密接な相関関係は、両者が究極的には一つの「場」の内に包括できる可能性(一元論)を予見させる。

世界モデル

私たち人間にとって、最も直接的な生の現実は「意識場」である。それが無ければ、知覚も思考も感情も意志も私自身という感覚も無い。意識場は私たちにとって真に価値ある心そのものであり、私たちそのものである。それは日常の生活の中で、私たちが直接アクセス可能な第一のリアリティである。

今、(統合場の存在を仮定して)この意識場を出発点とした世界モデルを展開してみたい。意識場は本質的には根本場である「統合場」の何らかのはたらき(活動)によって生じていると考えることができるだろう。統合場の活動によって意識場が起こり、その意識場の活動によって意識内容/クオリアが生じる。意識内容/クオリアが統合して、場に「主」と「客」の二極の心理学的形式が生じれば、やがて、主(私)と客(世界)は分離独立した“実体”として認知されることになる。

根本場である統合場と、そこから派生した意識場は、存在論的には分離しない連続したものである。意識場は統合場を基盤としている。この世にある無数の意識場(心)は、全て統合場に包含されている(図3)。

図3 統合場、意識場、物質場、自我
(三島ジーン「こころを探究する」より引用)

(1)統合場(X)
(2)統合場(X)+ 意識場(Xa)
 + Xa
(3)統合場(X)+[ 意識場(Xa)⇒ 物質場(Mn)+ 自我(ego)]

(1)統合場(X)がある。
(2)統合場の活動の結果、その限定態として意識場(Xa)が現れる。
   意識場の活動は意識内容を生む。
(3)意識の内容は統合し、場には主客二元の心理学的構造が生まれる
  a)客体は物質場(Mn)として認知されることになる(実体化される)。
・感覚世界(M1)は心の粗大レベルの働きで実体化される。
・論理的世界(M2)は論理的な心の粗大レベルの働きで実体化される。
・物質場の見かけ上の実体性は、統合場の真の実在性に由来する。
  b)意識場中の五蘊は集束して、主体(自我;ego)を仮構する。

では、このような統合場と意識場の関係性において、客観的な実体であるモノや力、つまり「物質場」は何処に位置付けられるであろうか。

今、統合場の何らかのはたらきによって、意識場に「林檎」という現象が現れたとしよう。その場合、この意識場に一つの現象をもたらした統合場の状態やはたらきは、実際には物質という実体や物質にはたらく力として解釈されることになるだろう。林檎という物質存在があって、その物理化学的情報が間接的あるいは直接的に各感覚器官に接触し、神経細胞において電気化学的信号に変換されて伝達され、その一連の情報は脳内の情報ネットワークシステムによって処理を受ける。

統合場の本来の活動は、このような一連の物質(場)の活動として論理的に理解されることになる。統合場の或る状態は、或る特定の物質存在として認知され、統合場の或るはたらきは、或る特定の物理化学的作用や力として理解されることになる。

存在と秩序

このように考えると、(私たちの常識に反し)物質の場は、本来、実在してはいない。真の意味で実在していると言えるのは、形而上学的な場として導入した統合場の方である。モノの見かけ上の実体性は、統合場の真の実在性に由来すると考えることができる。

統合場には基礎レベルから高次レベルまでの秩序のマトリックスがあり、それらが交錯し、影響し合い、様々な階層の秩序の単位が生じている。私たちはその秩序の単位をモノとして措定している。特に固定的持続的な秩序の単位は安定したモノとしての扱いを受けることになる。

モノは本来、世界を構成する「基本的素材」というよりも、世界を構成付ける「秩序の単位」と言った方が良いかもしれない。現代のサイエンスは、この世界の底知れぬ深みを持つ秩序の体系を、合理的に理解するための第一の方法である。

物質場(Mn)は心の粗大レベルによって、仮構され、実体化される。第一には、粗大レベルの心のはたらきによって、物質場はクオリアに彩られた「感覚世界(M1)」として実体化される。第二には、高次の論理的思考能力を伴う粗大レベルの心のはたらきによって、物質場は美しい数式で表現される「論理的世界(M2)」として実体化される。統合場という一つの場の状態と活動は、私たちの認知のはたらきに応じて多様な世界として具現化されている(図3)。

絶対知(無分別智)

このような統合場を基礎とする世界モデルの立場からは、東洋でいうところの究極の智慧、絶対知(無分別智)とは、如何なるものとして理解できるだろうか。

絶対知においては、何も対象を取ることがなく、空であり、場のレベルの純粋な意識そのものの状態となっている。そのような空性の絶対知の状態は、豊潤なクオリアで溢れた普段の認知状態(分別智)の立場から見れば、何の意味も価値も見出せないように思える。しかしながら、一旦その境地に達した覚者から見れば、それは分別智よりも、遥かに価値あるものとなる。それによってこそ、究極的な真理は把捉される。この真理に比べれば、分別智で捉えられる一切の現象は相対的なものであり、極言すれば、それは虚妄でしかない。

このような覚者の洞察が成立する理論的根拠を求めてみるならば、「知る」という意識場の主観的はたらきは、統合場のより根源的でベーシックな「知る」というはたらきを反映している可能性が考えられる。つまり、「知る」というはたらきは統合場と意識場を貫く根本的な特性であるからこそ、それを空性にて最も明瞭かつ純粋なかたちで把捉する無分別智は、真理を見通す智慧として、特別の価値と意味があるのではないだろうか。

(凡夫の)分別智においても、統合場の或る特定のはたらきは、或る特定の意識内容として顕現されている。目に映る山河草木は、統合場の特定のはたらきに相応する。無限のバリエーションの統合場の特定のはたらきが、豊潤な意識内容をつくり上げている。それに対して、(覚者の)無分別智では、統合場の根本的なはたらきである「知ること」が最も如実なかたちで体験されることになる。対象の取られない(認知されない)空(くう)の瞬間には、それまで統合場の特定のはたらきに関する情報(意識内容)によって埋め尽くされていた意識場は、澄んで静まり、統合場の最も根本的な特性である「知る」というはたらきが如実に体験されることになる。この二つの場(意識場と統合場)を貫く根本特性である「知ること」を、最も明瞭に純粋なかたちで把捉する智慧こそが、分別智を超えた真理を透徹する最高の智慧としての扱いを受けるようになるのだろう。

ただし通常、日常生活の中で「知る」という言葉が指し示すのは、神経活動と相関する意識場(の活動)である。日頃慣れ親しんでいる「知る」は、意識場のレベルでの「知る」に限定される。しかしながら、ここで述べる統合場レベルでの「知る」というのは、意識場の「知る」を展開させるポテンシャルを持つ、より根源的な心的特性である。統合場は本来根源的な心的特性を備えており、そのベーシックな心的性質が、ある一定の条件の下で意識場へと展開することになる。統合場の根源的な心的特性が特定の条件の下で限定化、具現化されて、意識の場が生起する。

今、眼前に広がる波立つ海をイメージしてみよう。海面上の波動のうねりからは、波しぶき(無数のしずく)が跳ね上がっている。この場合、海というのは統合場に、そして、そこから生じた無数のしずくの一つ一つは意識場に喩えることができる。しずくは海面の波動から次々と生じているが、しずくそのものは海水と同じ根源的性質を備えており、本性としては一元である。しずくと海は同質である。その「水」としての基本的性質は、二つを貫く根本的性質である。しずくの基本的性質を知ることは、海の基本的性質を知ることに等しい。このとき、しずくを生む原因となった海面上の波動は、物質の場として認知される。波動のうねりは、粒子や力として理解される。

>詳細は「文献 References」のページから

 

 

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