序章

 

 心について、私たちが日常生活の中で抱いている素朴な確信は、「私たちの内にある心と眼前にあるモノは、明らかに別ものである」ということであろう。私たちの愛する人々は、モノではない。その身体の中には「心」という特別な存在がある。私たち人間の心というものは、そこらあたりに転がっている石ころのようなモノとは全く異なる別次元の尊い存在である。この美しい世界の中でも心はとびきり特別な存在である。
 そして、この心の中には、さらに大切で、特別に重要で価値あるものとして、自分自身という感覚、自己の感覚、「私」、というものが存在している(という確信がある)。色形を眺め、泣き笑い、思考する「私」の存在を感じる。「私」は心の中核として機能し、「私」が世界を知覚し、「私」が感情を抱き、「私」が思考し、「私」が行為しているように感じられる。「私」はいつも安定して存在しており、昨日も今日も明日も全く変わること無く永続するように感じられる。心の中には、思考や感情、意志のクオリア(質感)とは別に、自己のクオリアと言うべきものが存在している。

 意外に思うかもしれないが、このような主観的な自己の感じ方というものには、個人差や文化差があるようだ。誰もが同じような自己の感覚を持っているわけではないらしい。私自身の自己感覚について言えば、私はそれを明瞭に実体的に自覚しており、それは西洋哲学でいうところの「自我」の概念と一致している。それは、認識、感情、思考、意志、行為などの主体であり、非自己が変化するものに対して、自己は安定しており、同一性を保持している。しかしながら、このようなタイプの自己感覚を、皆だれもが同じように持っているわけではないらしい。特に私たち日本人の中には、そのような西洋的な自我の感覚は希薄であるか、もしくは、無いという人々が多くいる。

「私」の多様性

 日本にユング心理学を導入した河合隼雄氏(1928〜2007)の説明によれば、カール・グスタフ・ユング(1875〜1961)は、西洋と東洋では意識の構造に相違があると指摘する。[1] ユングによれば、図1に示すように西洋の意識構造には「意識領域」の中心として機能する自我(ego)が存在する。しかしながら、東洋の意識構造にはそのような明瞭なかたちでの西洋的自我は無いらしい。ユングの深層心理学は、我々の心を「意識領域+無意識領域」として扱うのだが、東洋の心の中心は意識領域と無意識領域を合わせた全体性の中にあると指摘する。ユングはそれを自我ではなく、自己(self)と呼んで、両者を区別している。東洋の心にあるのは、意識機能の中心である自我というよりも、心の底にあってその全体をまとめる自己である。「西洋的自我」は、非自我である一切すべてと峻別されて、外界や他者と鋭く対立するものであるが、「東洋的自己」は、非自己との境界が曖昧で、心の底の底では外界や他者とつながっているような一体の感じがある。

 


 
 河合文化教育研究所所長である精神科医の木村敏氏(1931〜)は、このような東洋と西洋の自我/自己の相違を次のように説明している。

 

 欧米人は「自我」というものをきわめて実体的、固定的に捉えているのに対して、日本人はこれを全く非実体的、流動的に感じとっている、ということが言えるだろう。欧米人にとっては、「自我」とはまさに具体的、実在的に「存在」するものであるのに対して、日本人が「わたくし」とか「自分」とか言う場合には、それはむしろ抽象的なもの、「事実」の蔭にかくれた非実在的なもの、という感じが強い。欧米人が人格界と自然界とをはっきりと区別していて、「我」という場合にも、これを「非我」から截然ときわだたせているのに反して、日本における「自分」の「自」は「自然」の「自」でもある。自分自身の根底にも、自然の根底にも、そこに何か「おのずから」に生起する根源的な力のようなものがあって、その「分けまえ」として「自分」がある、という感じが強い。事柄のほうが先に起きて、その事柄にしたがって「自分」ということがはっきりしてくる、という構造になっている。[2]

 

 自分の心の内に、西洋的自我を強く意識する人は、河合氏や木村氏が述べるところの東洋的な自己を、おそらく全く理解できないだろうし、皆だれもが自分と同じような実体的な西洋的自我の持主であると固く信じているのではないだろうか。しかしながら、先にも述べたように、日本人の中には、そのような西洋的自我の感覚が希薄な人や、無い人が意外にも多いのである。

 

 以前、私は、友人や知人らに自分自身の自我をどのように感じるかについて質問したことがあるのだが、そのうち何人かは、西洋的自我という言葉が具体的には何を指しているのかが理解できないようであった。それについて尋ねても、自分自身の心の中にはそのようなものは全く見当たらないと断言する人がいた。河合氏が示すような西洋的な意識構造の図を見せながら、自我について繰り返し説明しても、そんなものは自分には無いと困惑するばかりであった。また、西洋的な自我の感覚を自分は持っていると言う人がいても、それを何処で感じるかと聞いてみると、それを頭の中ではなく、胸のあたりで感じるという女性も何人かいた。昔は、エジプトや中国、ヨーロッパといった多くの文化圏で、魂や心は人間の心臓に宿っていると考えられていたのと同じように、彼女らの自己は頭にはなく、胸のあたりに存在していた。私が「もし魂が肉体の何処かに宿っているとすれば、それは何処にある?」と尋ねると、彼女らは「胸のあたり」と答えた。
 私はそれまで、眼や鼻は顔に付いているのが当然であるように、自我は頭の中に局在しているのが当然だと固く信じていたので、そのような自我を感じられないという人々や、それを頭部以外に感じるという人たちが、自分の周囲にいることは大きな驚きであり、大変奇妙であった。それを知ったとき、それまで私と全く変わらないと思って普通に喋って笑いあっていた人たちが、実は人類と同じ皮膚や身体を持った異星人であったかのような衝撃を受けた。
 どうやら、赤や青といった色のクオリア、苦しみや喜びの感情のクオリアのように、「ああ、あれのことね」という、人類共通の一定形式の自己の感覚は存在しないようなのである。

 

 このような自我/自己の感覚の多様性を考慮するならば、西洋的な自我の感覚の存在だけを前提にして、自我や自己についての議論を展開してみても、最終的には問題の解決には至らないように思える。むしろ、自我/自己の感覚には、何故そのような相違性や多様性があるのかを問うことのほうが、より本質的で包括的な議論に結び付くであろう。固定的で実体的な自己、流動的で事象の裏に隠されたような自己、また、頭部に位置する自己、胸のあたりに位置する自己、そのような様々な自己のタイプが如何なる原因で生じるのかを分析、考察するほうが、自己をより深いレベルで理解するのに役立つのではないだろうか。

「私」の捕捉困難性

 このような自我/自己の感覚の多様性というのは、簡単には気づくことのできない自我の特性であると思うが、それよりもさらに気づくことの難しい自我の特性というものがある。それは、「自我というものを強くありありと心の中に感じていても、いざ心の中を精査した際には、精査する前に感じていたようなかたちでの自我を見出すことが極めて難しい」という、直ぐには容認し難い自我特有の性質である。
 西洋的な自我を強く意識している人は、それを自分の心の中に強固に実体的に感じ取っているだろう。フランス生まれの哲学者ルネ・デカルト(1596〜1650)が指摘するように[3]、それを物質に対峙する魂として、ありありと自覚することが可能であろう。しかしながら、いざ実際に、心の中にそのようなものを探ってみたとしても、自分が感じていたようなかたちでの自我をそこに見出すことは非常に難しい。実際にそこに見つかるのは、思考の流れ、感情や気分、身体感覚(頭部や顔面の皮膚や筋肉の感覚、食道や胃付近の感覚、口内や舌の粘膜の感覚など)といったもの(非自己)ばかりである。それら以外で、自我に相当するようなものは、簡単には見つからない。精神や肉体の感覚の中心には自我に相当するものが確かにあると感じられるのだが、それはあまりにも曖昧で微妙であり、明瞭に捉えることができないのである。

 

 このような自我についての観察事実を西洋哲学の歴史において初めて明確に指摘したのは、おそらく、スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒューム(1711〜1776)であるかと思う。ヒュームは自分自身の自我について次のように告白する。

 

 私だけについて言うと、私自身と呼ぶものに最も奥深く入り込んでも、私が出会うのは、いつも、熱さや冷たさ、明るさや暗さ、愛や憎しみ、快や苦といった、ある特殊な知覚である。どんなときでも、知覚なしに私自身をとらえることはけっしてできず、また、知覚以外のなにかに気づくことはけっしてあり得ない。[4]

 

 西洋の哲学者であるヒュームにとっても、やはり自我はそこに実在すると確信させるものであったろう。しかしながら、いざそれを詳細に観察分析してみた際には、そのようなものをそこに見出すことができなかった。
 このようなヒュームの見解は、私たちの直観に反しており、なかなか信じ難いものである。ヒュームは自我を捉え損なっている、あるいは、ヒュームの自我は特殊であると反論したくなる。しかしながら、一生を通じて心や自己を徹底して観察分析する仏道の修行者らも、ヒュームと同様の見解を表明している。仏道ではそのような心的事実に気づくことこそが、修行の要点とされている。チベット仏教の第十四世ダライ・ラマ法王(1935〜)は、この自我の性質について、次のように解説している。

 

 「私」というものは、具体的に指し示すことができるようなもの、非常に具体的なものであるかのように私たちの心に現われてきます。そしてこのような誤った現われに屈するとき、私たちは困難に陥っていくのです。
 「私」が具体的なものであるかのように現われるということと、考察をしたときにそれを見出すことができないという、この相容れない二つの事実は、「私」というものの現われ方とその実際のあり方の間に食い違いがあることを示しています。[5]

 

 仏教の心理学が指摘するところによれば、私たちは自我をありありと実体的に感じているかもしれないが、実際には、感じられる通りの自我がそこに実在しているわけではない。このことは、自我が全くの虚無であるということではなく、自己の実際の在り方と現れ方には相違があるということを意味する。事象の真実の在り方と現れ方には相違がある。そこを見誤ることなく正しく見極めることが仏教でいうところの智慧である。

「私」の仮構性

 ダライ・ラマ法王が指摘するように、自我の現れ方とその実際の在り方には相違があるのならば、そこからは次のような二つの主要な問いが生まれてくるだろう。〈第一〉は、自己の実際の在り方というものは一体どういうものか、自己とは本来何なのか、その真実在は如何なるものか、という問いである。そして〈第二〉は、そのような自己の実際の「在り方」から普段私たちが感じているような「現れ方」が如何にして生まれるのか、普段私たちが感じているようなかたちでの自己感覚が生じるメカニズムは如何なるものか、という問いである。
 第一の問いに関しては、今ここでの容易な解答は避けておきたい。日本の曹洞宗の開祖である道元禅師(1200〜1253)が、「仏道とは自己を学ぶことである」と言うように、仏道そのものがそれに答えるための「道」となっている。本論考においても、本論考の全体を通じて、それに答えていくつもりである。
 そして第二の問いに関してだが、こちらは第一の問いに比べれば比較的答えやすいものである。実際、多くの仏教者らはその問いに対しては簡潔に答える。例えば、スリランカ上座部仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老(1945〜)は次のように説明している。

 

 認識はただのはたらきで、エネルギーの流れで、だから、そこに「私」というものは全くないのです。……「自分」はないのですが、認識し続けてしまう現象を繋げて「自分という実感、錯覚」が生まれてしまうのです。[6]

 

 また、チベット仏教のダライ・ラマ法王は次のように説明している。

 

 私たちは、「私」がどのようなあり方で存在しているのかよく調べ、分析してみるべきです。論理的な分析を通して「我」は「心と身体の集合体」に依存して存在していると言い切ることができます。
 異なった学派が異なったレベルで、「心と身体の集合体」について解説していますが、「私」という感覚が「心と身体の集合体」の感覚に依存して形成されるという点は、だいたい共通しています。別の言い方をすれば、「私」の存在は、「心と身体の集合体」との関係性においてのみ仮設されるということです。[7]

 

 この二人の仏教指導者が指摘する{① 認識する現象が連なり、そこに(実体的な)「私」の感覚が生まれる}、そして{② 心と身体の集合体の感覚に依存して「私」の感覚が形成される}という、二つのシンプルな説明は、普段私たちが感じているような「私」が形成(仮構)される基本的な原理を簡潔に示している。しかしながら残念なことに、その説明は私たちにとってはあまりにもシンプルすぎて、具体的にはどういう意味なのかはよくわからない。また、「私」を強固に実体的に感じている人々にとっては、このような自我の実体性を否定する仏教者の見解は、極めて信じ難いものであるに違いない。このような直感に反する仏教者の見解をよく理解して納得するためには、より詳細で緻密な説明が必要であるかと思う。本論考の第一部では、認知科学や神経生物学からの知見も交えながら、それについて詳しく丁寧に解説するつもりである。

 次から始まる第一部の内容の概略をここで簡単に示せば、最初に仏教心理学の特徴やそれが目指すところについて概説し、次に仏教の心理学の要となる心を観察するための伝統的技法、および、その主観レベルの観察結果について述べる。そして次に「認識する現象の連なり」と「心と身体の集合体」が、自我を形成(仮構)する心理学的メカニズムを考察し、その後、それに対しての神経生物学的な説明付けを試みる。このような分析や議論は、先に提示した自我の「多様性」「捕捉困難性」「仮構性」といった「私」特有の謎を明らかにするものである。

 

 心の中心機能である自我を正しく理解することは、心そのものの本質を理解することにつながる。また、心を正しく理解することは、命そして世界の本質を理解することにつながる。自我/自己を理解することは、一切を理解することの出発点となる(また、同時にそれは最終点ともなる)。

 

<引用文献>

  1. 河合隼雄「ユング心理学入門」培風館 (1967) 二一九〜二四四、二七四〜三〇〇頁
  2. 木村敏「自覚の精神病理」紀伊國屋書店 (1973) 八頁
  3. デカルト「方法序説」谷川多佳子(訳)、岩波書店 (1997) 四六〜四七頁
  4. ヒューム「人生論」土岐邦夫、小西嘉四郎訳、中央公論新社 (2010) 一〇九頁
  5. ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャムツォ「ダライ・ラマの仏教入門」石濱裕美子訳、光文社 (2000) 五〇頁
  6. アルボムッレ・スマナサーラ、藤本晃「ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ 第一巻 物質の分析」サンガ (2005) 六八頁
  7. ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャツォ「ダライ・ラマ大乗の瞑想法」クンチョック・シタル(監訳)、鈴木樹代子(訳)、齋藤保高(原典訳)、春秋社 (2003) 一八〇頁